ニューロマスキュラー理論

ニューロマスキュラー理論

噛み合わせ症候群で苦しんでおられる患者さんを治すことができるようになったのは、
神経筋機構理論(ニューロマスキュラー理論:Neuromuscular theory)のお蔭です。この理論がなければ噛み合わせ症候群を治療することは出来なかったでしょう。

この理論が出現してから40年以上が経過しましたが、歯科界はおろか医学界でもあまり知られていません。その理由はこの理論がいまだ科学的な手続きを経て立証されていない、仮説の段階にあるということなのかもしれません。

しかし立証されていないといっても、この理論が主張していることはそんなに特殊なことではなく、すごく常識的で当たり前なことです。
この理論は"すべての身体の状態を、生理的に楽で安静な状態に保つことが、治療の基本である"と主張しています。

ほとんどすべての病気は生理的な条件を無視してそれに逆らい、無理をすることから発病しています。そのため病気の治療の基本は、とりあえず無理をしないで"安静にする"ということです。そうすることによって、ほとんどの病気は"自然治癒力"が働いて回復に向かいます。

ニューロマスキュラー理論(神経筋機構理論)などと難しそうな名称がついていますが、この理論は基本的に神経と筋肉、ならびに骨格との関係を論じています。
筋肉は骨格と骨格の間をつないで、からだを動かしていますが、それによって体は自由な運動ができます。

からだを自由にうまく動かすためには、この3者の関係を巧みに制御する仕組みが必要です。そのためには神経と筋肉の協働作業が円滑に行われるようにするために何らかの制御機構が存在しなければなりません。

その制御機構の仕組みのことを"神経筋機構"と名付けて考えを進めています。
この制御機構がうまく機能しないと、神経と筋肉、および骨格系の間に何らかの機能障害が起こるのではないかと考えています。

ものを噛んで食事をするという行為は、頭(頭蓋)の下部に生えている上の歯に対して、下の顎の上にある下の歯をこすりつけるように動かすことによっておこなわれています。これは頭蓋という頭の骨格と下あごという骨格の間にある筋肉の働きによって行われる行為です。

噛み合わせ症候群(TMD:Temporo Mandibular Disorder)という病気は、この二つの骨格の間に起こる機能障害であるというのが基本的な考え方です。

そのために噛み合わせ症候群(TMD)は、筋骨格系機能障害(MSD:Muscuro Skeletal Disorder)の一種であると考えられています。あるいは頭蓋と下顎のあいだにおこる機能障害のことでもあるので、顎頭蓋機能障害(CMD:Cranio Mandibular Disorder)とも呼ばれています。

ニューロマスキュラー理論
機能障害とは具体的には筋肉障害のことです。この二つの骨格のあいだの位置関係が生理的な条件を満たしていときに、その間に介在している筋肉に障害がおこるということです。

この仕組み(神経筋機構)があるお蔭で、かなり微妙な運動までこなすことができますが、それは神経と筋肉のあいだで絶妙な協働関係がうまく機能しているからです。微妙な動きができるということは、非常に巧妙で繊細なシステムであるということになります。

些細な刺激に対して敏感に反応して敏速に行動を起こすことができるということです。行動を起こす原動力は筋肉ですが、そのために筋肉は刺激にたいしていつも敏感に反応するようにつくられています。
この反応性の良さのために、筋肉は障害を受けやすいという弱点にもつながります。骨格と骨格のあいだの位置関係(姿勢)に問題があると、その間をつないでその微妙な微調整をしている筋肉は疲労してしまいます。休むことなく常に微調整をさせられているためです。

噛み合わせ症候群の本態は筋肉の障害ですが、その障害は筋肉の過労からおこっています。繊細なゆえにわずかな刺激にも反応して疲労状態に陥ります。とくに非生理的な関係が骨格間に存在すると筋肉は容易に緊張状態になり、疲労して不快症状を訴えるようになります。

筋肉が疲労するということは、筋肉内の血液やリンパの循環障害を起こしているということを意味しています。筋肉細胞内に乳酸が蓄積され、酸素が不足します。その状態が長く続くと自力では回復することが出来なくなります。この状態を拘縮または攣縮(スパスムス)などと呼び、痛みや疲労感など不快感の原因となります。

噛み合わせ症候群の不快感と不快症状はこのようにして発生しています。対策(治療)としては、筋の緊張を緩和して疲労を回復させることですが、そのためには筋を安静状態にしなければなりません。
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さらには、筋を緊張させている原因を取り除かなければなりません。筋を緊張させているものは、骨格間の非生理的な位置関係ですが、それはこの場合頭蓋と下顎の位置関係のことですが、さらには下顎と胴体の骨格間の位置関係のことでもなります。

頭蓋と下顎の位置関係が生理的でない場合には、その間にある筋肉が安静を保てなくなります。

筋肉が安静を保つことができる顎の位置(頭蓋に対する)のことを、生理的下顎安静位といいます。この下顎安静位の許容範囲は比較的に限定されています。

この範囲内で咀嚼などの機能が行われていればよいのですが、歯の位置や形態、配列などによっては、顎の位置をずらさないと上下の歯を噛み合わせることが出来ないということも起こります。そうすると歯を噛み合わせる度に顎は非生理的な位置、つまり安静を保てない位置にずらされることになり、筋を異常に緊張させて筋肉症状が発生します。


下の図は顎を前から見た、奥歯のあたりの模式図です。上の顎と下の顎の各骨格間の関係を示しています。

ニューロマスキュラー理論

上の左側の図は上下の歯を噛み合わせない状態を示しています。上下のあごの位置関係は良好で健康な状態を保っています。そのため筋肉も生理的に安静で、緊張はしていません。しかし歯の高さは左右で不均衡な状態です。

右側の図は、左の状態から奥の歯を噛み合わせていったときの状態を表わしています。右の奥の低い歯が噛み合っていくと、あきらかに下の顎は右の方向(時計方向)に回転します。そうすると左右の筋肉は不均衡な状態になります。歯を噛み合っている時間が短ければ、歯を噛み合わせない時に筋肉は安静を保てますが、このようなことがたびたび繰り返されると筋肉は安静を保てなくなり、疲労して循環障害に陥り、回復が困難な状況になります。

治療は上下の歯を噛み合わせても、あごの位置が下顎安静位の範囲内にとどまるようにすることを目的におこないます。

下顎は頭蓋との間だけでなく、胴体の骨格などとの間とも無数の筋肉で結ばれています。そのため、下顎の位置が狂うとこれらの骨格どうしの間の位置関係も狂い、その間の筋肉は安静を保てなくなります。その結果として首筋や肩、胸部の筋肉にも障害がおよび、肩コリなどの症状を自覚するようになります。

一連の筋肉はその他の筋肉と連携して全身的なネットワークを形成していると考えられます。
一部の筋肉の不調和は全身的な筋肉の不調和として伝搬していきます。そのため噛み合わせで狂わされた顎の周辺の筋の不調和は、遠隔の部位の不調和として表れることになります。噛み合わせ症候群ではあごの周辺だけでなく、その不調和は全身の症状として表れることになります。

以上のことからニューロマスキュラー理論の考えの中心のテーマは、筋の安静を保つということであり、診断と治療は安静位を基準としておこなわれます。

その異常は筋肉の全身のネットワークのために、ドミノ効果のように全身に波及していきます。顎の位置のずれがこのように全身の姿勢や健康に影響を及ぼすということには驚かざるを得ません。
ニューロマスキュラー理論

このような考え方を提唱し、その理論をもとに診断と治療のための臨床術式を確立したのは、シアトルの開業医であった、バーナード・ジャンケルソンという歯科医師でした。

ジャンケルソンはもともと総義歯の専門医でした。歯が一本も無くなったところに入れ歯という人工の装置をいれて、それでものがうまく噛めるようにするのはとても難しく、高度な知識と熟達した技術が要求されます。

歯が一本も無くなった人のために、良く噛める義歯を作るためには難しい関門がいくつかあります。その中で一番むずかしいのは、義歯を作るための顎の位置を推定することです。
これを間違うと上のあごに嵌めた義歯と下のあごに嵌めた義歯が口を閉じたときに噛み合いません。あごが自然に閉じる位置で噛み合うように義歯を作らないと、うまく噛める義歯は作れないのです。

歯がまだ存在していたときの顎の位置は、上下の歯を失ってしまうと分からなくなってしまいます。歯があったときの位置を推定してつくる以外に方法はないのですが、推定する方法については歯科の歴史のなかでさまざまなことが試みられてきました。

そのなかで最も多くの歯科医に支持されてきた方法は、あごの位置を顎関節を基準にして推定する考え方です。しかしこの方法はあまりうまく成功しているとはいえません。

それにかわる方法としては、筋肉を基準にして推定する方法があります。ジャンケルソンはこの方法を採用して大成功を収めました。顎の筋肉が最も楽でリラックスしたときの位置を基準にして義歯をつくるとよく噛める義歯をつくることができました。つまり下顎の安静位を基準にして義歯をつくったのです。このようにすると、顎を自然に閉じたときに口の中の義歯も自然に噛み合います。

この関係が狂うと口をとじて噛もうとすると、口の中で義歯がずれて噛み合うか、義歯が噛み合うようにあごをずらして咬むようにしなければなりません。義歯がずれると口のなかに傷ができて痛くて噛めなくなります。あごをずらして咬んでいると、あごの筋肉が疲れるようになります。

以上の義歯に関することがらからは、噛み合わせ症候群の治療に関していくつかの重要な共通点を読み取ることができます。

まず、義歯をつくる基準は下顎安静位であるということ。その位置以外で義歯を作ると、その義歯は使いものになりません。

一方噛み合わせ症候群の患者さんの場合、歯が噛み合う位置と顎が楽な位置とが合っていないと、あごをその位置にずらして噛まなければならなくなります。そのために顎を動かしている筋肉に負担をかける結果となり、筋肉症状を起してしまいます。

歯がうまく噛み合う位置とあごが楽な位置とが一致していない場合には、義歯は口の中で移動してしまい安定しませんが、天然の歯が存在している噛み合わせ症候群の患者さんの場合には、歯そのものに異常な力が加わるようになり、歯の寿命そのものを損なう結果になります。

いずれにしても、下顎安静位を基準に治療をするということは歯科治療全般に適用されなければならない絶対的な原則なのです。噛み合わせ症候群の患者さんの場合にはこの原則を適用することで、症状のほとんどを消し去ることができますし、症状が無い患者さんの場合には、歯の寿命を全うするために必須の原則であるということになります。

神経筋咬合の概念(Neuromuscular Concept)は、1972年に、Bernard Jankelsonによって提唱されました。このような発想が得られた背景には、よく噛める総義歯を作ろうと努力した経験があったのではないかと考えられています。

前述したように、かれは義歯をつくるときの基準として"筋肉"を用いて大成功しました。
それまでの顎関節を基準とした方法よりすぐれた義歯をつくることができたからです。

それいらい筋肉こそが主役であるという思いから、神経筋咬合理論であるニューロマスキュラー咬合理論が形作られていったのです。そのためこの理論のはじまりはよい義歯をつくるためのものだったのです。

それが噛み合わせ症候群(TMD)のような筋肉障害の治療にも有効だということが後からわかり、多くの人を救うことのできる貴重な理論となりました。

生前かれはよくこんなことを言っていました。


"幸せな筋肉は幸せな患者をつくる"、"幸せな患者は幸せな歯科医師をつくる"


まったくその通りだと思います。